社長インタビュー

企業理念

四人兄弟の三番手として、私が札幌に生まれたのが1961年のこと。映画好きの兄たちのおかげで、わが家のテレビには映画が映し出されることが多かった。「ベン・ハー」などに代表される圧倒的なスケールの洋画も好きだったし、勝新太郎の「座頭市」「兵隊やくざ」にも胸を躍らせていた。そんな少年時代の漠然とした銀幕への憧れは、いつしか演じる俳優という仕事への憧れに変わっていった。

端役時代

81年、大学受験に失敗した私は、知り合いに勧められて国鉄を受験する。望んで就いた仕事ではない。一念発起し、映画俳優を志す。26歳で新劇の劇団を受験した。最初の一年間は、声楽やダンス、日本舞踊など、基礎をみっちりと勉強した。同じ劇団に渡辺謙さんがいたが、彼のようなスターは万に一人。私も二年目にはデビューできたが、当然のことながら端役や脇役ばかり。キャリアを積むと、CMに起用されたりもしたが、もらえる役は刑事モノの悪役がほとんどだった。それでも、かつてテレビやスクリーンを通して眺めていた俳優たちとの共演は得難い経験であったし、何より現場で学ぶことは多かった。わずか一、二行の台詞でも間の取り方は場面ごとに違うし、現場には毎日異なる緊張感がある。そうしたことは、場数を踏んでいくうちにわかってきたし、監督や裏方と酒を飲んだり、先輩俳優と行動をともにすることで気づかされることも多かった。
そして、デビューして10年がたった98年。36歳になった私には、作り手の側に回って自分の作品をつくってみたいという願望が湧いてきた。役者仲間二人と映画の製作委員会をつくり、夢の実現へ向け動き出したのだった。脚本・監督は一人でこなさないと作品に魂は吹き込めない。98年から映画製作のための資金集めに奔走した。配給会社にプレゼンに行ったり、ときには投資家が集まるパーティーに足を運んで、自分たちの映画の企画を売り込んだ。しかし現実はそう甘くはない。折しも日本映画界の大低迷期。役者としてはさておき、作り手として何の実績もない私たちに気前よく出資してくれる団体・個人はいなかった。

元役者が社長になるまで

役者の仕事で貯めた金も底が見え始めてきた。それは他の役者仲間も同じこと。製作委員会は、一旦活動休止にせざるを得なかった。結局、製作費のすべてを出資してもらおうというのが、虫がよすぎたのだ。半分くらいは自己資金を貯めて、足りない部分を出資してもらおう。そんな考えから、大手人材派遣会社に派遣社員登録し、地道に働き始めた。私が派遣された先は、浦和のケーブルテレビ会社。よく、売れる営業マンはまとっている空気が違うというが、私の場合もそれに似た雰囲気があったのかもしれない。加えて、役者時代に学んだことも活きた。また、派遣先の社長にも懇意にしていただいた。彼は仕事が終わった後に私を飲みに誘い、仕事の意味や経営手法などについて教えてくださった。充実した日々を送り、自らの映画製作のための資金も順調に貯まり、あともう一踏ん張りというところで騒動が起こった。

2000年春のことだ。そのケーブルテレビ会社に私と同じように派遣されていた同僚のAが、当時過熱していたマイライン戦争の波に乗ろうと独立し、代理店を設立。しかし数ヶ月で経営に行き詰まり、派遣先の社長に口ききをして欲しいと、私を頼ってきたのだ。派遣先の社長に相談すると、私が面倒をみるなら、かまわないという。少し嫌な予感はしたが、Aの会社から二十代の営業マン四名が派遣されてきた。私自身はお目付役ということで、ケーブルテレビ会社に迷惑がかからないように、その四人を自分の部下にして面倒を見ることにした。彼らの勤務実態に合わせて給与計算表をつくり、Aに手渡したりしていた。一ヶ月目の給与は支払われたが、二ヶ月目に未払いという事態が発生した。後で事情を聞くと、Aが売り上げを丸抱えしてしまい、それを会社設立にかかった借金の返済に回し、給与の未払いに至ったらしい。当然、Aの会社から派遣された四人の社員はただ働きになる。
四人の部下たちは助けを求めてきた。短い間だったが、共に仕事をした仲間であり、彼らもなぜか私を慕ってくれていた。見捨てるわけにはいかなかった。私はすぐに知り合いの弁護士を紹介して、Aを相手取って裁判を起こすサポートをした。彼らの生活のために大手の派遣会社を紹介することもできたが、皆、私と一緒に仕事がしたいと言い、譲らなかった。私はここで肚をくくった。2000年6月、私は彼らを受け入れる新しい派遣会社を設立したのである。
その設立の直前、私の胸中は複雑だった。映画製作のために、身を粉にして貯めた資金を本来の目的以外のことに使ってしまう。夢が遠のくのだ。Aに裏切られた不幸な四人のための救済会社になるのではないか。このまま人材派遣業にどっぷりと浸かってしまっていいのか。正直、断ろうとも思った。が、私を頼ってくれる弟のような部下たちがいる。一度は面倒を見ると言った話を、ここで降りるのは卑怯じゃないか。また、私が会社を立ち上げるなら、喜んで取引をすると、件のケーブルテレビ会社社長も約束してくれていた。私は近づいていた映画製作の夢を断念し、新会社をつくったのだ。

全身全霊を傾けた営業

私は全力を挙げて業績を軌道に乗せようとした。人材派遣業の当社にとって、何よりの営業活動は鍛え抜いた優秀なスタッフを派遣することだ。その四人を徹底的に鍛え上げることにした。一緒に回ることで、それまで私が掴んだ営業ノウハウや勘といったものを、私から盗んで欲しい。役者時代の自分が先輩俳優からそうしたように。そんな思いがあった。幸い、件のケーブルテレビ会社社長をはじめとした周囲の口コミ支援もあり、半年も経たないうちに、当社の得意先は一社から八社にまで増えた。役者時代に鍛えた体に多少の自信はもっていたつもりだが、連日昼の営業と夜の懇親会とで、自分でも体がボロボロになっていくのがわかった。しかし客先にそんなことは関係ない。現場に一歩入れば、身のこなしは凛として顔の表情はにこやかに変えた。そうしたスイッチのオンとオフの切り替えは、役者稼業で身についたものかも知れない。

そうした私の姿に社員たちも応えてくれて、短い間に目覚ましい成長を見せた。
「武田さん、僕らの会社をもっと大きくしましょうよ」
彼らからそんな生意気な台詞を聞いたときは、報われた気がして嬉しかった。

主役よりも輝く端役を

経営やマネジメントの経験など皆無に近い私だが、理想とする組織はおぼろげながら見えてきた。それは私を含めた社員の一人ひとりが役者になりきり、その役に込められたミッションを果たす横並びの組織である。当社の場合、スタッフは派遣先でトップ営業マンを演じ、それにふさわしい実積を上げる。私は社長というポジションを任され、彼らが働きやすいように、また成長の手助けを精一杯する。そうしたシンプルな関係こそが、質の高い仕事を生むのではないか。
実は、当社の定款には映画製作が謳ってある。何度も諦めかけた夢だが、いつの日か必ず実現したい。と同時に、社員が、10年後、20年後、「この会社に入ってよかった」と思えるような会社にしたい。そんな経営者としての新しい夢が生まれた。
当社の派遣スタッフは、立場としては派遣先企業の”端役”なのかも知れない。しかし、その役割を理解し、そのなかで課せられたミッションを遂行すれば、主役にも負けない輝きを放てるはずだ。そんな誇りをもった”名優たち”を送り出していきたいと思っている。

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